今日、芝丸山古墳に友人と行きました。伊能忠敬測地偉功表の前で、「これは、なぜ点線なの?」と聞かれました。
よく見ると、北海道の北部に確かに点線があるのです。今まで何度となくこの測地偉功表を見てきましたが、全く気付きませんでした。こんなところに気付くなんて本当に凄いです。
ただし、先週に聞かれたら全く答えられませんでしたが、今日は奇跡的に答えられました。
それは、25日(水)にNHKの特集で「歴史探偵『伊能忠敬の日本地図』」を見ていたからです。
伊能忠敬は、17年間も全国を歩いて測量をして日本地図を完成させました。その努力は大変なもので、しかも地図はかなり正確でした。番組では琵琶湖の北岸2.5kmを実際に伊能忠敬が行ったように測量をして地図を作っていました。たった2.5kmでも立ち入ることができない場所があって舟を出したり、危険な場所があったりして大変だったことがよく分かりました。
しかし、伊能忠敬は完璧ではなかったのです。下の表をご覧ください。
北海道には、1回目の測量で行っているのですが、南部だけだったのです。
回 | 年 | 測量地 |
1 | 1800年 | 東北・北海道南部 |
2 | 1801~1802年 | 関東・東北 |
3 | 1802年 | 東北西部 |
4 | 1803年 | 東海・北陸 |
5 | 1805~1806年 | 近畿・中国 |
6 | 1808~1809年 | 四国 |
7 | 1809~1811年 | 九州 |
8 | 1812~1814年 | 九州 |
9 | 1815~1816 | 伊豆七島 |
10 | 1816年 | 江戸 |
では、北海道北部については測量をしていないのに、なぜ伊能忠敬は日本地図を完成できたのでしょうか。
伊能忠敬は、自分に厳しく、他人の資料は一切使わない主義だったそうです。けれども、弟子の一人であった間宮林蔵だけは別でした。樺太や間宮海峡を発見し実績があったので、北海道北部については、間宮林蔵のデータを採用したそうです。(参考:伊能忠敬e史料館)
全ての測量を終え、北海道北部のデータを受け取った伊能忠敬は、地図を作り始めましたが、1818年に73歳で亡くなってしまいます。その仕事は弟子たちが引き継ぎ、ついに1821年に日本地図は完成しました。
「北海道の北部が点線のわけは何?」という疑問から実に面白いことが分かりました。
伊能忠敬自身が測量をせず、弟子の間宮林蔵が測量をしたから点線だったのです。
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