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執筆者の写真kazu

寛永寺 Kaneiji その2


 寛永寺その2は,上野駅公園口から不忍池弁天堂までの短いコース(青の点線部分)です。


 精養軒近くの小高い丘に建っているのがパゴタ(仏塔のこと)です。その手前に顔だけの大仏があります。


 

 最初は1631年に粘土で大仏が造られたそうです。しかし,1647年の地震で倒壊してしまったそうです。次は銅製の大仏と大仏殿が造られましたが,1841年の火災で焼失してしまったそうです。再建されましたが,再び1855年の地震で顔が落下。そして,修復されました。明治になって大仏殿が撤去され,関東大震災でまた顔が落下。修復されないまま胴体部分が戦争時の金属回収令のために供出されてしまいました。最後に顔だけが残ったというわけです。胴体を失ったお顔は「もうこれ以上落ちない」(^_^;)ということから合格大仏として親しまれているそうです。


 上野大仏のそばに1666年に建てられた鐘楼堂があります。「花の雲 鐘は上野か浅草か」という句をよんだ松尾芭蕉は,桜の時期に,深川の芭蕉庵で鐘の音を聞き,あれは寛永寺だろうか浅草寺だろうかと物思いにふけっていたそうです。残念なことに芭蕉が聞いた鐘の音はこの鐘ではありません。それは,何度か造り直されているからです。現在の鐘は1787年に造られたそうです。


 次に寛永寺清水観音堂(きよみずかんのんどう)へ行きました。重要文化財です。京都の清水寺をまねて造られた,上野に残る最古の建築です。本尊が千手観音なのも,堂が舞台造りなのも清水寺と同じです。1631年に天海僧正が建てました。


 清水観音堂の舞台からは不忍池が見下ろせます。これは不忍池を琵琶湖に見立てたそうです。


 その弁財天に行きました。寛永寺は東の比叡山という位置付けでしたので,不忍池に中島を築き,琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)に見立てて弁財天を造ったそうです。ですから,初めは橋がなく,舟で往来していたそうです。1661~1673年に橋ができたと言われています。


 江戸時代の弁天堂は空襲で焼失し,現在の弁天堂は1958年に再建されたものです。


 今まで「寛永寺」を意識したことがありませんでした。こうして調べてみると,おもしろいものです。

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