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執筆者の写真kazu

芝公園巡検05<芝丸山古墳>


 芝公園を歩くと、台地があることに気付きます。私が見ると、「こんな都会にも山があるのか!」と思うだけです。



 1892(明治25)年、その3年前に「弥生式土器」を発見した坪井正五郎(つぼいしょうごろう)は、この丸山とその頃にあった増上寺の五重塔のコントラストから古墳ではないかと考えたそうです。

 日本の考古学の父といわれる坪井は、芝に自宅を構え、この辺りを散策コースにしていたのも一役買ったのでしょう。1898(明治31)年、ついに前方後円墳1基、円墳11基を発見しました。このうち、今でも残っているのは前方後円墳だけです。

 大きさは、全長約106m、後円部直径約64m、くびれ部幅約22mで、都内では最大級の前方後円墳だそうです。立て看板には、「前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。」と書いてありました。


 後円部頂上には、標識の大石があり、「瓢形(ひさごがた)大古墳、外部遺物・埴輪、石槨(せっかく)・無し、遺体・不詳、副葬品・鏃(やじり)其他鉄器・馬歯)と刻まれています。

 後円部頂上には、上のような目立つ碑があります。「伊能忠敬測地偉功表」です。

そこには、次のように書かれています。

 

伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生まれて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。

その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。

東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。

 1965年5月

 社団法人東京地学協會 會長細川護立

 

 伊能忠敬の測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建設したというのが趣旨です。

 1889年といえば、まだここが古墳であるかどうか分からなかったときですから、よりによって、ここに建てるとはよほど目立つ場所だったのでしょう。

 

 前方部頂上には、虎の石像があります。近くに説明板はありません。碑には、「鐘がなる春のあけぼのゝ増上寺」と刻まれています。

 調べてみると、これは大野伴睦(おおのばんぼく)の句碑でした。本名大野伴睦(おおのともちか)氏は、衆議院議長や自民党副総裁を務めた大物政治家でした。岐阜県を地盤とした方で新幹線の岐阜羽島の駅前には夫婦の銅像が今も建っています。

 虎の骨董品が大好きだった方で、東京都大田区・池上本門寺の墓前には虎の石像があるそうです。大野氏が調理師会の名誉会長として尽力した労をねぎらうために1963(昭和38)年にこの句碑が贈呈されたものだそうです。

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